2月11日に亡くなった野村克也氏(享年84歳)は1979年5月27日、新潟市の鳥屋野球場で650号本塁打を放った。そのボールを左翼席で手にし、野村氏から記念のサインボールとサイン入り帽子を受け取った男性がいる。新潟市在住の丸田徹さん(52歳)で、当時小学6年生の野球少年だった。41年前、野村氏から直接サインをもらった丸田さんは「オーラがあった。少年野球で捕手をしていると話したら、喜んでくれて『頑張れ』と励ましてもらった」と思い出を語る。突然の訃報を受け、丸田さんは長年大切に保管してきた記念のサインボールと帽子を新潟市に寄贈することを決めた。新潟市は鳥屋野球場に展示する予定で、丸田さんは「650号が達成された球場で多くのファンに見てもらい、野村さんの偉業を知ってもらいたい」と話している。
野村氏の650号記念サインボールとサイン入り帽子を前に思い出を語る丸田徹さん
野村氏は現役時代、王貞治氏に次ぐ歴代2位となる通算657本塁打を放った。その最後の“節目”となる650号を放ったのが1979年5月27日、鳥屋野球場で行われた南海ホークス対西武ライオンズの公式戦だった。西武の七番・捕手として先発出場した野村氏は4回表、左翼席に先制のソロ本塁打を叩き込んだ。
父親の英一さんと一緒に球場を訪れ、左翼席にいた丸田さんは「芝生の上でゆったり観戦していたら、目の前でボールがポーンとはねました」と思い起こす。素手でボールをつかんだ瞬間、「場内アナウンスで『650号ホームランです』と放送があった。大勢の人がワーッと覆いかぶさってきてもみくちゃに…父親が自分を守ってくれたのを覚えています」と笑う。その後、西武の球団職員からベンチ裏に来るよう案内された。
「西武の球団控え室に行くと、その日は登板がなかった東尾(修)さんがいらっしゃって相手をしてくれました。少年野球のチームの色に似ていたので当時自分は阪急の帽子を被っていたのですが、東尾さんが被っていた西武の帽子を頭に載せてくれました。5回の整備中だと思うのですが、野村さんがやって来た。ドキドキしました。やはり大物のオーラがありました。少年野球で捕手をしていると話したら喜んでくれて、『よし、頑張れ』と励ましてもらいました。ホームランボールと交換したサインボールに『650号ホームラン』と書いてもらい、帽子にサインをいただきました」
野村氏が「650号」と書いたサインボールを手に 当時小学6年生の丸田さん
その後、中学で卓球を始めた丸田さんは、北越高校時代には個人戦で県優勝を果たし、インターハイの団体戦で全国ベスト8に輝く。
「野球から卓球に種目は変わりましたが、ずっと野村さんに親近感を覚えてきました。著書も買いました。卓球でも戦術やビデオ分析をするなど野村さんに影響を受けました。野村さんは野球だけでなく、スポーツ界全体…スポーツ選手の考える力、弱者が強者に勝つためにどうしたらいいのかを考えた最初の方。日本のスポーツ界を変えた方だと思います」
大学を卒業後、丸田さんは障害者を支える仕事につく。現在は新潟県障害者スポーツ協会の事務局長として、障害者スポーツの普及・振興を図り、東京パラリンピックに向けた県内選手の支援などに汗を流す。
野村氏のサインが入った帽子と記念のボール 近く新潟市に寄贈される
11日に野村氏が急逝。訃報を聞き、「突然のことで驚いた」という丸田さん。「いつか、どこかのタイミングで寄贈したいと考えていた」と、このほど大切に保管していたサイン入りのボールと帽子を新潟市に寄贈することを決めた。
「できれば650号が達成された鳥屋野球場で多くのファンに見てもらい、野村さんの偉業を知ってもらいたい」と話す。ボールと帽子は近く新潟市に寄贈される予定。鳥屋野球場は展示スペースがないが、新潟市スポーツ振興課は「とても貴重な品。丸田さんの意向が実現できるよう、展示を検討したい」としている。
(取材・撮影・文/岡田浩人 写真提供/丸田徹さん)