夏の前哨戦となる「第132回北信越高校野球・新潟県大会」(春季県大会)が29日に開幕しました。そこでこの春初めてベンチ入りした1、2年生のうち注目の新戦力を(上)(中)(下)の3回にわたって紹介します。第2回は新潟明訓高校の2年生・高津大嗣(だいし)投手です。
何気ない仕草が日米でクローザーとして一時代を築いた父の姿を思い起こさせる。セットポジションからのサイドスロー・・・持ち球はスライダーのほかに「シンカー」と答え笑った。「近くにいいお手本がいましたから」。新潟明訓の2年生投手・高津大嗣はこの春、初めて背番号「17」を付けてベンチ入りする。父はヤクルト、メジャーリーグなどで活躍し、現在はヤクルトで投手コーチを務める高津臣吾氏。その長男が新潟でデビューする。
練習試合で投げる高津大嗣投手 フォームや仕草・・・何よりマウンド度胸が父親を彷彿とさせる
「冬前は練習試合でも打たれてばかり。その頃は春にメンバーに入ることができるとは思ってもいなかった」と話す高津。中学3年で本格的に投手を始めた高津は身長175センチ、体重65キロと細身で、「速いボールを投げることができるわけでもない。ずば抜けた変化球があるわけでもない」と自らを分析する。しかし高校、大学と控え投手として過ごしながら、代名詞となった「シンカー」を駆使しプロの世界で確固たる地位を築いた父のように、この冬、高津は投手として自らの生きる道を模索した。
その結果、「打者のタイミングを外す、緩急をつけた投球」に磨きをかけた。セットポジションの間(ま)を1球1球変え、丁寧に低めを突く。3月から始まった練習試合では登板する試合で結果を残した。「確かに球速は速くないが、面白いボールを投げる。打てそうで打てない。ほとんどの試合で0点に抑えてきた」と本間健治郎監督は目を細める。その上で「短いイニングなら目先を変えることができ試合を作ることができる。もともと勝負勘はいいものを持っている」と評価。23日のメンバー発表で背番号17を高津に与えることを発表した。
今月23日の練習終了後、メンバー入り選手を発表する本間健治郎監督(左)
1998年生まれ。物心ついた時には父はヤクルト黄金時代の中心選手だった。小学校2年生で野球を始めた時には父はメジャーリーガーだった。しかし「家では優しい父親で、あまり野球の話をした記憶がない。ただ野球をやっている人間として父は憧れであり、尊敬をしている」と高津は言う。「現役にこだわり韓国、台湾で選手を続ける姿を見てプロフェッショナルだと思った」と父の背中を見つめてきた。その父の現役野球選手としての最後の地が新潟だった。BCリーグの新潟アルビレックスBCの選手兼任監督だった2012年9月、悠久山球場で現役最後の登板をし、引退セレモニーをおこなった。その時、中学2年生だった高津は球場で父の雄姿を見つめた。「これから君たちの野球でパパやママを楽しませてくれ」・・・息子に向け涙ながらに語りかける父の姿を目に焼き付けた。
<高津臣吾氏 現役最後の登板>
https://www.youtube.com/watch?v=NyPfY55VMsE
<高津臣吾氏 引退セレモニーでの挨拶>
https://www.youtube.com/watch?v=X5gpQ3PY-0I
高校進学の際に、その新潟を選択した。「新潟明訓は文武両道で勉強でも野球でも上のレベルでやれるという思いがあった。一年中野球に向き合える環境があった。人として野球人として成長できる環境が欲しかった。親元を離れてやらせてほしいとお願いした」と話す。「新潟は父の引退の地。最後の球団にいた新潟県の高校に入学したことに縁を感じる」とも言う。
サイドスローから変化球を駆使する 打者のタイミングを外す投球が持ち味
「高津」の名前。この1年、周囲のプレッシャーにも「それは覚悟してきた」と話す。その上で「息子だからと憶えてもらうのではなく、選手として僕の名前を憶えてもらえれば」と強い決意をにじませる。春の大会で背番号を17を付けることを電話で父に報告すると、「俺は高校2年生の春で背番号なんかもらえなかった。自信を持っていけ」と励まされた。この春の大会、新潟での公式戦デビューに備える。「自分らしい伸び伸びとした投球で堂々と投げ、チームの勝利に貢献したい」と意気込む。将来の目標を尋ねると、しっかりとした口調で答えた。「目標は父を超えること。でも今は少しでも父に近づけることができたら嬉しい」。
(取材・撮影・文/岡田浩人)