第101回全国高校野球選手権・新潟大会で、45年ぶり3度目の甲子園出場に挑む古豪・長岡商に、試合には出場しない3年生がベンチ入りしている。背番号20の植村拳士郎(17)である。入学時、体は小さくて体力がなく、「本当に3年間、高校野球を続けられるのだろうか」と周囲が心配する中、植村はコツコツと努力を続けた。「自分にしかできないことを考えよう」と説く佐藤忠行監督(44)の指導のもと、自らができることを模索した。大会1か月前、自分だけの“引退試合”に臨み、自分自身に、そしてチームに、ある“奇跡”を起こした。
長岡商の背番号⑳植村拳士郎(3年) 裏方としてベンチからチームを支える
長岡市の長岡商グラウンド。夕闇が近づく中、打撃練習を終えた部員たちがクールダウンのために外野へ向かう。その中で、3年生の植村はボール整理や道具の片づけに汗を流す。1か月前、植村はプレーヤーを“引退”した。今は部員たちのサポート役に徹している。
「ケンシロウ」
佐藤監督や部員たちは親しみを込めて植村をそう呼ぶ。名前の由来は、父親が漫画『北斗の拳』のファンだったこと。主人公・ケンシロウのように「強い子になってほしい」と願いが込められた。植村自身も「気に入っている」という名前だ。
しかし入部当時、植村は「違う意味で目立っていた」と佐藤監督は言う。
「身長は160センチもなく、体重も50キロ以下で、とにかく体が小さく、体力がありませんでした。『本当に高校野球をやるのかな』と思ったくらい。ボール回しをしても、山なりの球しか投げることができず、少し速い球が来るとはじいてしまう。雨の日に格技場で素振りをしていたら、握力が弱ってバットが飛んでしまい、ガラスを割ってしまった。部員に当たらなくてよかったと胸をなで下ろしたこともありました」
高校野球を指導して20年余。初めて出会うタイプの部員だった。「まずは、体力づくりから始めよう」という佐藤監督のもと、植村はコツコツと努力を重ねていった。
クールダウンに向かう部員の横で、黙々と後片付けをする植村。大会前の1か月、チームのためにサポート役に徹してきた
植村が野球を始めたのは小学5年生の時。地元・栃尾の少年野球チームに入った。きっかけは父親から「根性をつけなさい」と言われたことだった。植村は振り返る。
「それまでほとんど運動をしたことがありませんでした。野球をすることで周りとつながることができれば、とも思いました。それまでは少食だったのですが、野球を始めたことで、ご飯をたくさん食べられるようになりました」
子どもの頃、野球以上に大好きだったのが、仮面ライダーやヒーロー戦隊もののテレビ番組。「かっこよかった。戦隊ものは1人1人のキャラクターが違い、野球に似ている部分があります」と目を輝かせる。小学生の頃からのチームメイト・若杉元春(3年)は「仮面ライダーが好きで、よく動画を見ていました。正義感が強かった」と植村の印象を話す。
そんな植村が中学1年生の夏、テレビに映し出される甲子園大会を見て、高校野球のとりこになった。
「日本文理高校の飯塚悟史投手(現・DeNA)の甲子園での力投を見て、高校野球をやりたくなりました。みんなで力を合わせて勝つことが楽しそうだな、と思いました」
長岡商に入学後、野球部に入部するのに迷いはなかった。ただ、他の部員に比べて実力、体力面で劣っているのは自覚していた。打席で強いスイングができない。守備でもミスをしてしまう。「何度かやめようと思ったことはあった」と打ち明ける。
転機は佐藤監督から掛けられた言葉だった。
「おまえにしかできないことは何だろう?それを考えよう」
佐藤監督は言う。
「体が小さくても、打席で投手のボールを見極めたり、ここぞの場面でバントを決めることができたり…そういう役割で生きられる選手もいるんじゃないか、そう言いました。ウチは部員の人数が限られていますが、だからこそ指導には差をつけたくない。それぞれが秀でるものがあれば、プレーだけでなく、例えばバットボーイやボールボーイを一生懸命やる子、ベンチの中で整理整頓ができる子…人としての姿勢は何ら変わらない。むしろそういうことができる、そういうことで生きようとする、みんなのために尽くす、という気持ち、目立たたなくても自分の役割を一生懸命果たそうとすることは、社会に出てから最も大切なことなのではないか…自分自身、ケンシロウと出会って考えさせられました」
それから植村は積極的にバント練習を行った。ベンチの荷物を片付けるなど裏方仕事にも汗を流した。同期のエース左腕・目黒宏也(3年)は「実力や体力面では他の部員よりも劣っているかもしれないが、1つのことに集中し、途中であきらめない性格で、ベンチではいつも相手の配球を研究している。それがケンシロウの個性」と認める。
植村も自分自身が高校野球で変わっていくのを感じていた。
「佐藤先生から“役割”を与えてもらい、バントの練習をするのが楽しくなりました。練習試合で送りバントを決めるとうれしかった」
長岡商の佐藤忠行監督 1992年夏の優勝校・長岡向陵の五番打者として甲子園に出場した経験を持つ
今年6月2日に行われた栃木翔南との練習試合。2試合目に九番・DHで先発出場した植村はスクイズを空振りしてしまうなど、いいところなく3三振を喫してしまう。
翌日、佐藤監督は格技場に植村を呼び、ある決断を伝えた。
「おまえを選手として夏の大会で使うことは、ない。その代わり、選手を支える側として夏の大会まで専念してくれないだろうか」
悩んだ末の決断だった。
「チームが夏に勝つという目的に対し、ケンシロウがどういう役割を果たすことがチームのためになり、そして成長に繋がるのかを考えた末での決断でした。ケンシロウには、荷物整理をしたり、ベンチで配球のメモを取ったり、ボールボーイやバットボーイなどを進んでやっていることをずっと見ていたこと、その存在がいまやチームにとっては大きなものであることを伝えました」
その言葉をじっと聞いていた植村の頬を涙が伝った。
「佐藤先生の自分への気持ちがすごく伝わってきました。他のメンバーのサポートに徹しようと決めました」
そこで佐藤監督は植村に2つ約束した。
「1つは夏の大会で背番号20を与えること。まだベンチ入りメンバーも発表していない時期でしたが、ケンシロウが第1号のベンチ入り決定者でした。もう1つはその週末の福島遠征の練習試合で、必ずケンシロウを1試合フルで出すから、その試合をプレーヤーとしての“引退試合”としよう、ということでした」
打撃練習ではマシンにボールを入れる役割を買って出る
6月9日、福島・会津高との練習試合。
九番・ライトで先発出場した植村は5回の第2打席でセンター前に「今までで見たことがない当たり」(佐藤監督)というヒットを放つ。植村自身、「自分でも打ったことがないヒット。初めての感覚でした」という当たり。高校3年間で体力がついたことを実感した。一塁ベース上からベンチを見ると、自分のことのように喜ぶ仲間たちがいた。
7回、第3打席の植村が空振り三振に倒れ、二死。そのまま一番打者も倒れ、チェンジとなった。残された2イニングの攻撃で、2人出塁しなければ最終回に植村の打席が回ってこない。佐藤監督が8回の攻撃が始まる前に、円陣で檄を飛ばした。
「必ずケンシロウに回せ!」
すると、8回に打者が1人出塁した。迎えた9回、「いつもはボール球に手を出してしまう」(佐藤監督)という六番打者・小野塚樹(3年)が粘って四球を選び、一塁へガッツポーズで向かう。続く酒井翔真(3年)が送りバントを決め、一死2塁。八番の若杉は倒れたが、二死2塁で植村に打席が回って来た。ベンチの全員が大きな声で植村を後押しした。
植村は“最後の打席”、全力でバットを振った。
結果は空振り三振。試合には敗れたものの、自分が持っている力は全て出せた、と感じた打席だった。「悔いはないか?」と佐藤監督から尋ねられた植村は、「はい」とはっきりとした声で返事をした。監督から手を差し出され、しっかりその手を握り返した。「やり切った」という思いが込み上げてきた。
佐藤監督は「監督人生で初めて経験する、不思議な、奇跡のような試合だった」と振り返る。
「部員たちには、いつもは『人のため』とおまえたちは言うけれど、本当の『人のため』というのはこういうことじゃないのか、と言いました。いつも、『アイツに回せ』と言っていたことが、本当にそういう気持ちになれば回せるんだ、これが目に見えない力なんじゃないのか、と選手が実感できた。ケンシロウは最後の、最後の試合で、チームが目指していることを体現させてくれました。ケンシロウはチームが勝つための存在として、ものすごく貴重なことを残してくれました」
開会式前に植村拳士郎(中央)を囲む3年生 11日に初戦に臨む
背番号「20」を背負い、最後の夏を迎えた植村。
チームメイトの若杉は「小学生からやってきた仲間として、最後の大会に一緒に出られることがうれしい。夏の大会でもベンチワークで引っ張って活躍してほしい」と期待を寄せる。
植村は「自分の居場所が見つかった高校野球だった」と振り返る。夏の大会ではベンチの中から自らの役割を果たすつもりだ。
「プレーで活躍できなくても、自分のやるべきことを見つけることができました。このチームは甲子園を目指して戦えるチーム。ベンチから相手の配球を見て、自分から気がついたことはベンチで言いたい。高校野球で学んだ自分の役割を大切にすることが、この先の将来でも役に立つと思います」
162センチ、53キロ…小さな体のケンシロウが、チームを1つにし、そして強く成長させている。
※長岡商は11日、初戦となる2回戦で上越総合技術と対戦する。
(取材・撮影・文/岡田浩人)