この2人の対決には、2人にしか分からない“会話”があった。
十日町市出身で、日本文理高校を卒業した池田貴将(18)。
同じく十日町市出身で、新潟明訓高校を卒業した村山賢人(18)。
小学2年生で出会ってから10年の月日が経っていた。
一方は、日本文理のキャプテンで4番打者。
一方は、新潟明訓のエース。
『幼なじみ』であり、まぎれもない『ライバル』だった2人。
6打数1安打、1死球、1三振。
高校3年間で2人が残した直接対決の成績である。
この春、2人は高校生活を終えた。
そして大学生として新たなスタートを切る。
ライバルの物語は今、第2章が始まろうとしている。新潟明訓を卒業した村山賢人投手(左)と日本文理を卒業した池田貴将選手(右)
2人が出会ったのは十日町市立西小学校2年生の時。別々の少年野球チームで野球を始め、互いにその力を認めていた。そんな2人が5年生の時にチームの合併でチームメイトになった。
池田 「ケントは2年生の時から試合に出ていて本当にうまかった。一緒のチームになれると聞いて、これで優勝できると思いました」
村山 「タカマサはキャプテンとしてチームまとめる力があった。チームを引っ張っていく力があると思っていました」
6年の時には村山が3番打者、池田がキャプテンで4番打者に。2人でチームを引っ張り、十日町市内の大会で優勝。県大会でベスト16に進出した。2人は互いの家を行き来するほど仲良しだった。
そんな2人の関係が少しずつ変化していったのは十日町南中学校時代。2人はピッチャーとしてエースの座を争った。
村山 「エースナンバーの1番はいつもタカマサだった。自分はセンターの8番。どうしてだろう、なんで1番をもらえないんだろうと思っていた」
池田 「中学ではケントのことはライバルだと思っていた。負けたくないと思っていました」
当時、十日町南中学校で2人を指導していた松井晃一監督は強烈なライバル心を燃やしていた2人の様子をこう振り返った。
「池田は闘志を体の全面に出す負けず嫌い。村山は内に秘めた負けず嫌い。お互いピッチャーだったのですが、ある時ブルペンで互いに違うキャッチャーを指名して投げていて、僕が怒ったことがあったんです。あの頃から意識し合っていたんでしょうね」
池田、村山のダブルエースを擁する十日町南中学校は県大会でベスト16に進出。その時にエースナンバーを背負っていたのは池田だった。ある時、池田が高校進学について口にした。
「俺、文理(日本文理)に行くから」
その瞬間、村山は心に決めた。
「俺は明訓(新潟明訓)に行く」
村山は進路決定で日本文理のライバル校・新潟明訓を選択した。その時の自分の心境をこう振り返った。
村山 「どこかの段階でタカマサとは戦わなければいけないと思いました」
日本文理の中心選手に成長していった池田貴将選手
新潟明訓で1年秋からエースとしてマウンドに立ち続けてきた村山賢人投手
高校に入学し、2人は十日町市から100キロ余り離れた新潟市にあるそれぞれの学校の寮で暮らし始める。慣れない新潟市での寮生活。当初は互いにLINEで連絡を取り合い、励まし合っていた。
そんな2人の関係が変わったのは高校1年生の秋。村山が新潟明訓の投手陣の中心として頭角を現し始めた頃だった。村山は県大会4回戦・村上桜ヶ丘戦で1失点の完投勝利を収めると、続く北越戦では3安打完封。期待の1年生投手として新聞に大きく取り上げられた。
池田 「悔しかった。北越戦で投げて新聞に載った。それを見て『うわー』と思いました」
池田も1年生ながらベンチ入りし、サードのレギュラーを奪おうとしていた。日本文理は県大会では優勝し、新潟明訓とともに北信越大会に駒を進めた。しかし北信越大会1回戦で松商学園(長野)に0対15で5回コールド負けを喫してしまう。
一方、北信越大会1回戦で完投勝ち、準々決勝でも先発し勝利に貢献した村山は選抜甲子園出場まであと1勝と王手をかけた。準決勝の春江工(福井)戦でも先発した村山は3対1とリードしながら、疲れの見えた8回につかまってしまう。結局、3対5で逆転負けし、目の前にあった甲子園切符を手にできなかった。
ただ、1年生ながら2人はチームの中心選手になろうとしていた。
2人が互いに連絡を取り合うのをやめたのもこの頃だった。
互いに相手の姿を思い浮かべながら練習を重ねていた。
池田 「バッティングの調子が悪い時は、先輩から『そんなんじゃ村山を打てないぞ』と言われていました」
村山 「自分たちより部員が多い文理でタカマサが試合に出ているのを新聞で見て刺激を受けました。名前が自然に目に入って、『ああ打っているな』と思っていました」
2年夏、村山は県大会準々決勝で村上桜ヶ丘に敗れた。一方、池田は決勝で村上桜ヶ丘を破り甲子園出場を決めた。甲子園の1回戦・大阪桐蔭戦では敗れたものの、池田はタイムリーヒットを放つ活躍を見せた。
村山 「そう簡単に甲子園に行けるものじゃない。その中で甲子園に行ったタカマサは凄いと思いました。同時に気持ちがへこんで数日間引きずりました。次は負けないと思って、夏場は厳しい練習を課しました」
2年秋、新チームが発足すると池田は日本文理のキャプテンに、村山は新潟明訓のエースに、それぞれがチームの大黒柱となっていた。両チームは秋の県大会で大本命の前評判通りに勝ち進む。そして決勝で2人は初めてとなる“直接対決”を迎えた。
新潟明訓のエースに成長した村山賢人投手(2013年9月・県大会決勝)
池田と村山。
ライバル同士の初対決は3回表、1死走者なしからだった。
マウンドからホームベースまでの距離は18.44メートル。
その距離を挟んで両雄がにらみ合った。
池田 「中学生の時とは比べ物にならないくらい真っ直ぐも速くてコントロールもよかった。これは凄くいいピッチャーになったなと打席に立って実感しました」
村山 「タカマサのスイングスピードが全然違った。第一打席でレフト前にヒットを打たれて・・・全力で投げた真っ直ぐで140キロ近く出ていたと思います。正直怖かった。小学校の時からずっと一緒にやってきて、タカマサはここぞの場面で打っていた」
続く第2打席は空振りの三振。第3打席はサードへのファールフライ。池田・村山の直接対決は3打数1安打1三振だった。試合は逆転に次ぐ逆転のシーソーゲームで、終盤8回に星兼太の長打で再逆転した日本文理が4対3で新潟明訓をくだした。
村山 「あの試合はめっちゃ憶えています。8回に星くんに逆転打を打たれて、カーッとなって頭が真っ白になりました」
池田 「明訓は強かった。ケントがいいので点を取れなかった。力の差はないと思いました」
新潟明訓をくだし秋の県大会で優勝を決めた日本文理・池田貴将選手(左端)
その後、日本文理は北信越大会も制し、選抜甲子園出場を決める。選抜では1回戦で敗れたものの、秋の神宮大会で準優勝した力は全国屈指のものとなっていた。
村山 「冬場は短距離の走り込みを繰り返して、変化球の精度を上げていくのを課題にしました。タカマサはもっと上へ上へと目指してやっているはずと思って、負けないよう自分を追い込みました」
そして、2度目の直接対決の機会がやってくる。
春の県大会決勝。第1シードの日本文理と第2シードの新潟明訓が順当に勝ち上がった。
2回裏、4番の池田が打席に入る。
その瞬間、村山の目が険しさを増した。
池田 「3番の小太刀(緒飛)の時と顔つきが違った」
村山 「文理は池田のチーム。キャプテンで4番で・・・僕にとっては対文理イコール対池田でした」
「池田を抑えるにはインコースを突くしかない」
キャッチャーの水澤圭太と事前に打ち合わせをしていた村山は、1ボール2ストライクと追い込んだ4球目。果敢に内角攻めを敢行した。
その瞬間、池田の左腕にボールが当たった。
デッドボール。
さっと一塁へ向かい走り出した池田。
帽子を取った村山。
この後、日本文理の1年生・荒木陵太が長打を放ち先制。試合は3対0で秋に続き日本文理が勝利し優勝した。
一方で、この試合で村山は池田を3打数無安打に抑えた。
村山 「自分の投球ができた手応えはありました。夏までにさらに精度を上げていければと」
池田 「勝つには勝ったが、秋までは外のストレートとスライダーの出し入れで勝負してきていて、それなら何とか対応できるかなと思っていたが、あそこでインコース見せられてこれは大変だなと。甘い球はこないし、夏までにインコース打てるようにしなければと思いました」
言葉を交わすことはなかった。
しかし18.44メートルを隔てて、2人は“会話”をしていた。
ただ互いを意識し、負けたくない、負けられないと切磋琢磨して2人は成長していった。
十日町市の小学校で出会った2人は、新潟県を代表する4番打者とエースに成長していた。
18.44メートルの距離を隔て対峙した2人(去年5月12日の県大会決勝)
3年夏の新潟大会。
3度目の2人の対決の機会は、訪れなかった。
新潟明訓は準決勝で関根学園に敗れ、決勝進出を逃した。
試合後、真っ赤な目でロッカールームから出てきた村山は、消え入りそうな声でこう言った。
「タカマサに申し訳ない、と伝えてください」
この言葉を聞いた池田は、しばらく黙ったままだった。
その後、日本文理は新潟大会で優勝。甲子園でも勝ち進み、ベスト4に進出した。1回戦の大分の快速右腕・佐野皓大に始まり、全国の好投手を打ち崩した打撃は見る者に鮮烈な印象を与えた。池田は2回戦で東邦・藤嶋健人のインコースの直球をレフト前に運ぶ逆転打を放つ活躍をみせた。春の県大会決勝以降、「村山対策」としてインコース克服に取り組んだ成果だった。
池田 「(大井道夫)監督がずっと『村山を打たなければ勝てない』と速球対策を練習してきた。その結果、甲子園でいい投手と当たっても動じなかった。ケントがいなかったら自分もここまで成長できていなかったと思います」
甲子園から帰って来た池田は久しぶりに村山と直接話しをした。ライバルが幼なじみに戻るまで、実に2年の歳月が流れていた。
「ケントがいなかったらここまで成長できていなかった」と語る池田貴将選手
2人はこの春、同じ首都圏の大学に進学する。池田は東洋大学、村山は国学院大学。ともに「戦国」と言われる東都大学野球連盟に所属するライバル校である。現在は国学院大は1部、東洋大は2部でリーグ戦を戦っている。
池田 「東洋は2部なので、まずは1部に昇格して神宮球場で試合をしたい。試合に出られるように頑張って、チームの力になって早く1部昇格の力になりたい」
村山 「最初の目標はローテーションに入ること。じっくりと体を鍛えて、チームの勝利に貢献できるように頑張りたい」
2人の当面の目標はベンチ入り、そしてレギュラーの座を勝ち取ること・・・十日町から新潟市へとやって来た3年前と同じである。その先には、神宮球場に舞台を替えて3度目となる直接対決が待ち望まれる。そして、互いに最終目標は「プロ」と言い切る。
池田 「最終目標はプロ。まずは高校で達成できなかった日本一を大学で達成できるように頑張りたい。ケントは一生のライバル。対戦したら結果を残せるように頑張りたい」
村山 「小学校からずっと一緒で、それだけでも凄いことだなと思う。プロに入るだけでなく活躍することが目標。お互いに努力して最終的にプロでも対戦できれば嬉しい」
18.44メートルを隔てたライバルの物語の舞台は、この春から神宮球場へと場所を変える。そしてその先も見据えた2人の切磋琢磨は、もう始まっている。
(取材・撮影・文/岡田浩人 取材協力/ハードオフ・エコスタジアム新潟)