昨季まで18年間にわたり巨人でプレーした聖籠町出身の加藤健捕手(35・新発田農高出身)が5日までに現役引退を決断した。去年10月に巨人を戦力外となり、11月には合同トライアウトを受け、他球団からのオファーを待ったが、目途としていた年内に獲得を表明する球団はなく引退を決めた。今後は未定。加藤捕手は「現役中は多くの人との出会いに恵まれた。今後はこれまでの貴重な経験をいかしたい」とコメント、地元・新潟の野球界への恩返しなどを考えているという。
18年間のプロ生活にピリオドを打ち、現役引退を決めた加藤健捕手
加藤捕手は1981年、聖篭町生まれ。新発田農高では1年夏から四番・捕手として活躍。3年時には春夏連続甲子園出場を果たし、1998年のドラフト会議で巨人から3位指名を受け入団。プロ入り2年目の2000年9月27日のヤクルト戦で一軍初出場。06年6月11日のロッテ戦でプロ初安打。07年にはシーズン終盤に一軍で活躍し、9月21日の横浜戦で寺原隼人からプロ初本塁打を放つなど巨人のセ・リーグ優勝に貢献した。15年にはプロ入り初の猛打賞をマークするなど自己最多の一軍35試合出場を果たした。プロ18年で一軍185試合に出場、打率.216、3本塁打、24打点だった。
新発田農業高時代の恩師で村上桜ヶ丘高校の松田忍監督は「まずは『お疲れ様』と言いたい。正月に本人から『引退します』と連絡が来た。思い出すのは
◎現役にこだわったワケ 加藤の心を動かしたもの◎
加藤が巨人の幹部に呼び出され、「来季構想外」を告げられたのはシーズンも終盤に差し掛かった9月上旬のことだった。18年間の貢献にふさわしいポストの提示もあった。堤辰佳GMからは「引退セレモニー」の提案もあった。そのことには感謝しかなかった。
しかし、加藤は現役にこだわった。
「毎年覚悟をしていましたが、いよいよ来たかと思いました。でも、球団から言われた翌日、普通なら気持ちが落ち込んでもおかしくないのに、練習をしていてもすごく体が動いた。野球をしていて楽しかった。『オレ、まだできるじゃないか』と思いました。その日のイースタンの試合でサヨナラヒットも打ちましたから」
これまでトレードなどの話がなかったわけではない。しかし巨人一筋18年の野球人生を送ってきた。そこで迎えた「戦力外」の通告。
初めて、「別のチームで違った角度から野球を観てみたい」と考えた。悩み抜いた末、他球団での現役続行を希望し、巨人を退団する選択をした。プロ18年を巨人一筋で過ごしてきた男が見せた“最後の意地”だった。
1998年のドラフト会議。巨人は逆指名で1位・上原浩治(現・カブス)と2位・二岡智宏(現・巨人コーチ)を指名。競争獲得枠となる3位で最初に指名したのが加藤だった。当時懸案だった将来の正捕手候補として期待を懸けていた。ただ、プロ入り当初は本人も戸惑うばかりだった。
「最初のキャンプの時、地方の高校で育った自分と周囲のレベルがあまりにも違いすぎてショックでした。こんな自分がプロでやっていけるのかなと正直不安になりました」
高卒の加藤には当時、相談できる先輩もいなかった。さらに加藤が入団した2年後、巨人は阿部慎之助をドラフトで逆指名。1年目から正捕手として起用される阿部に対し、加藤は度重なるケガにも悩まされ、なかなかチャンスを掴むことができなかった。
「いつクビになってもおかしくなかった。常に崖っぷちでした」
しかし、野球に取り組む姿勢が徐々に周囲の評価を変えた。高校時代から「リードなどで気がついたことはびっしりとノートに記していた」(高校時代の恩師・松田忍監督)というほどの研究熱心さが、投手陣の信頼を集めるようになる。2007年にはシーズン終盤の大事な場面でケガの阿部に代わってスタメン起用されると、好リードで投手陣を引っ張った。打撃でもチャンスで結果を残し、チームの優勝に大きく貢献した。いつしか加藤はチームに欠かせない存在となっていった。
新潟のファンの中には「巨人以外のチームならばもっと出場機会が増えたのではないか」と残念がる声もあったが、加藤はきっぱり言う。
「阿部さんという存在があったから、自分もここまで成長できました。阿部さんがずっと第一線でやってきて、144試合をプレーするすごさを改めて感じた。一軍の試合に出させてもらって、勝っている時はいいが、負けが込んでくると『こんなにキツいのか』ということもわかった。優勝争いの絶対に負けられない試合でマスクを被らせてもらったこともいい経験になりました」
2015年にはキャリアハイとなる35試合に出場した。プロ18年で積み重ねた一軍での試合出場は185試合…しかし数字以上にチームに貢献し、その姿は若手選手から絶大な信頼を集めるほどだった。
決して目立たないが、困った時には必ずチームの役に立ち、皆が確かな信頼を置く男…それがカトケンだった。「真面目で、目立たたないが、しっかりと仕事をする」と評される新潟県人の鑑だった。
個人的な思い出もたくさんある。高校時代から取材を通して付き合いが続いた。高校2年秋の北信越大会、初めてのセンバツ甲子園取材、ドラフト、緊張の巨人入団会見、1年目の読売ジャイアンツ球場でおこなわれたイースタン戦での初ホームラン、初の地元開催のイースタン戦での大活躍、一軍初出場での空振り三振、結婚、ケガ、エコスタでの先発出場、そして地元ファンとの語らい。
何より2012年に独立し、「新潟野球ドットコム」を立ち上げた後、「少年野球教室は続けましょう。協力しますよ」と言ってくれた言葉は忘れられない。毎年12月に実施している新潟県出身プロ野球選手による少年野球教室では後輩選手たちにお手本となる姿を見せ、新潟の子どもたちに夢を与え続けてくれた。
地元の子どもたちに夢を与え続けてくれた加藤健捕手
現役引退を決めた後、長男で小学1年生の峻平くん(6)が加藤のもとにやってきて、真剣な表情でこう告げたという。
「もう1年でいいから、やってよ」
野球を習い始めた峻平くんにとって父親がプレーする姿を、もう一度目に焼き付けたかったに違いない。加藤は息子に頭を下げ、静かに告げた。
「ごめん。パパももう1年、と思っていたけれど、それが叶わなかった。だからあとは峻平が好きなことを見つけて、頑張ってほしい」
加藤の言葉を息子は黙ってじっと受け止めていたという。
「もう1年・・・と思ったのは、長女は5年生で僕が野球をやっている姿はわかっているんです。でも下の子(長男)は2015年のシーズン(35試合出場)の時にまだ幼稚園であんまり覚えてなかった。来年プレーできたら、息子の目に自分の姿を焼き付けられると思った。でも叶わなくて、引退を告げて、『もう1年でいいから、やってよ』と言われて・・・涙が出そうでした」
届かなかった「19年目」への思いを、加藤も家族も胸にしまって前へ向かって進んでいく。
プロ18年…派手ではないが確かな足跡を刻んだ加藤。
加藤が歩んできた道のりは新潟の野球界にとって宝物である。
「新潟に恩返しがしたい」
そう話す加藤。
プロ野球選手としては自らピリオドを打ったが、その野球人生は、まだ続いていく。
(取材・撮影・文/岡田浩人)