大学野球の関甲新学生野球連盟の春季リーグ戦が6日開幕する。1部の新潟医療福祉大は6日からの第1節で昨秋優勝の上武大と対戦する。新潟医療福祉大は昨年、春季が最下位の6位となり、入れ替え戦で1部残留。秋季は最終戦で勝利して5位、入れ替え戦を回避した。チームを率いて7年目となる佐藤和也監督は「昨年は厳しいシーズンだった」と振り返る一方、「新4年生が昨年の反省に立って、野手が相手投手の分析を行うなど細かいケース想定をしてきた。何とか結果を出し、優勝戦線に躍り出てほしい」と期待を寄せる。大藪将也主将(4年・上田西)は「自信を持って臨める。初優勝を目指す」と気合いを入れている。
6日から春季リーグ戦に臨む新潟医療福祉大の選手たち
チームからは昨秋のNPB(日本野球機構)ドラフト会議で漆原大晟(新潟明訓)がオリックスから育成ドラフト1位指名を受けた。中日・笠原祥太郎(新津)に続き、同大2人目のプロ誕生となった。
漆原の卒業に伴い、新エースとして期待された飯塚亜希彦(4年・上越)だったが、昨秋に右ひじを手術した影響で、今春の開幕には間に合わない。そのため佐藤監督は投手陣について、右の伊藤開生(3年・成城)と左の桐敷拓馬(2年・本庄東)を中心に、「今年は繋いで勝つ形。1試合で5~6人を使ってでも勝ちを拾いにいく」とプランを描いている。中継ぎで控えるのは矢嶋航大(4年・小諸商)、稻垣健太(3年・村上桜ヶ丘)、稲垣優斗(3年・日本文理)、小鷹樹(3年・巻)ら。
中でも佐藤監督が期待を寄せる存在で、初のベンチ入りを果たしたのがバンゴーゼム高(3年・帝京長岡)である。185センチの長身左腕で、力のある直球が武器。高3夏はエースとして新潟大会ベスト8も、入学から2年間、フォーム固めに努めてきた。佐藤監督は「ブルペンで投げているボールがようやく試合に出るようになってきた」と成長ぶりを評価。「短いイニングでいいので、自信を持って自分のボールで押してほしい」と鼓舞する。
初のベンチ入りを果たした貴重な左腕・バンゴーゼム高(3年・帝京長岡)
バンゴーセムは「ようやく上半身と下半身のタイミングが合うようになってきた。1年生の時にキャッチボールからフォームを見直す中、一時期はイップス気味になったこともあり、野手転向も考えたが、こうやって投手としてベンチ入りできることはうれしい」と笑顔を見せる。「今は制球もよくなり、低めに強い球がいくようになった。試合で使われるとしたら短いイニング。打者に向かっていく姿勢で、思い切り投げたい」と意気込んでいる。
野手陣は須貝祐次郎(3年・村上桜ヶ丘)、主将の大藪将也(4年・上田西)、吾妻光一朗(4年・小諸商)の上位から中軸が振れている。オープン戦はやや不調だった昨春の打点王・荒木陵太(3年・日本文理)が復調すれば得点力はさらにアップする。
昨秋は1試合平均の得点が2・18と打線が苦しんだ。改善のために取り組んできたのが対戦相手投手の「分析」である。球速や持ち球のほか、投手有利のカウント、打者有利のカウントで、どのコースに投げてくる確率が高いか、細かい分析を進めた。大藪主将は「1人ひとりが配球への意識の持ち方が変わった。ベンチの中で情報共有することで、オープン戦でも連打が出るようになった」と話し、手応えを掴んでいる。
佐藤監督は2月にヘルニアの手術を行い、佐賀キャンプも途中参加を余儀なくされ、一時戦列から離れた。ただ「選手が、自分たちでやろうとする力が高まった。チームとして進歩し、いい方向に向かっているのは間違いない」と話す。「エース(飯塚)不在で外から見た目は苦しいが、投手も野手も結束して相手を研究している。だからこそ『取り組んでいることが間違いではない』という結果がほしい。そこを足掛かりに、優勝戦線に躍り出てほしい」と選手たちの奮起に期待している。
佐藤監督の話を聞く選手たち 6日からの第1節は上武大との対戦となる
◎新潟医療福祉大の春季リーグ戦日程◎
4月6日(土)7日(日)…対 上武大(上武大野球場)
4月13日(土)14日(日)…対 白鷗大(太田運動公園)
4月20日(土)21日(日)…対 平成国際大(上武大野球場)
5月4日(土)5日(日)…対 山梨学院大(上武大野球場)
5月11日(土)12日(日)…対 作新学院大(白鷗大野球場)
※2勝で勝ち点1、第3戦が行われる場合もある
◎最後の学年で初のベンチ入りに燃える“スラッガーの血を継ぐ者”◎
4日の全体練習後、佐藤和也監督がミーティングで選手たちにこう語りかけた。
「腐らずにやってきた選手が、最後は活躍できると思っている」
それは4年生の春になって、初めて25人枠のベンチ入りを掴んだ、ある選手に贈った言葉だった。
治田丈。
4年前の2015年夏、治田は新潟大会で甲子園に出場した中越高校の右の五番打者で一塁手だった。甲子園でもタイムリーヒットを打った。
右の強打者と期待されて新潟医療福祉大に入学したが、3年間、公式戦出場はおろか、ベンチ入りも果たせなかった。
「高校と大学ではレベルが違った。バッティングが自分の思い通りにいかなくて、こんなに打てないのかと感じました」
しかし、治田は諦めなかった。
4年生の春に初のベンチ入りを掴み取った治田丈(4年・中越)
「心が折れた時もありました。でも、せっかく自分で決めて、大学に来たからには最後まで諦めずに頑張ろうと。自分がチームのために何ができるのかを考えました」
高校時代はチームの中心選手だった。
しかし、大学ではずっと二軍を意味するBチーム。
それでもベンチで声を出し続けた。全体練習後もバットを振り続けた。
173センチ、95キロという「ずんぐりむっくり」の体形と、下を向かない性格で、チームメイトから愛される“イジラれキャラ”。「高校の時はそんな選手じゃなかったんですけど、大学に来てから、なぜかイジラれるようになっちゃいました」と明るく笑う。
佐藤監督はBチームでも腐らずに努力を続ける治田を見ていた。
「代打で出して、凡退してきても、ベンチの雰囲気が悪くならない。周りの下級生たちからイジラれている。打撃も努力してよくなってきた。右の代打として、『ここで外野に大きいのがほしいな』という時に使いたい選手」(佐藤監督)
佐藤監督の話を聞く治田(中央)
治田の父親・仁さんも中越高校で一塁手、四番打者として1985年夏の甲子園に出場。特大の三塁打を含む3安打を放ち、“スラッガー”として新潟の高校野球ファンにその名を知られる存在だった。
1人息子の丈が小学3年生で野球を始めると、黙ってその姿を見ていた。
ある日、丈が練習試合で三振し、泣きながら「野球を教えてください」と頼んできたという。「それからは“星一徹”でしたよ」と仁さんは笑う。治田家では毎晩、ホームセンターで購入したネットに向かって、親子二人三脚のバッティング練習が続いた。
丈は中学時代にサク越えを放つなど、“スラッガーの血を継ぐ選手”として注目された。父親と同じ中越高校に入学し、1年夏からベンチ入り。3年夏には父親と同じ背番号「3」を背負い、甲子園で活躍した。その後、地元の新潟医療福祉大に進学し、野球を続けた。
父親の背中を追い、甲子園に出場し、さらに大学でも野球を続ける選択をした息子を見つめながら、仁さんがぽつりとつぶやいたことがある。
「親として、こんなに幸せな人生はありません」
7年前、中学3年生だった治田丈と父親の仁さん(左)
創部から7年目を迎えた新潟医療福祉大の硬式野球部には4学年で160人を超える選手が在籍する。一軍を意味するAチームは約40人。そしてそのほかの選手はBチームになる。公式戦の25人のベンチ入りを勝ち取るための競争は激しい。
大学4年になって初めてベンチ入りを掴んだ治田丈。硬式野球をプレーするのは大学までと決めている。
「最後くらいは、試合に出ている姿を親に見てもらいたいなと思っています」
そして、自分を“イジって”くる後輩たちのために、この春は特別な気持ちで打席に立とうとしている。
「今はBチームにいる選手でも、諦めなければこういうバッティングができるんだという姿を見せたい。後輩の励みになるプレー、Bチームにいる選手のためにも頑張りたい」
自らが打席に立つ時は、チャンスやしびれる場面での「代打」であることはわかっている。佐藤監督が言う「腐らずにやってきた選手が、最後は活躍できる」という言葉を証明するため、この春、治田はバットを振る。
周囲への感謝の心を胸に、野球人生の集大成を見せる決意だ
(取材・撮影・文/岡田浩人)